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  • 2016.03.31 Thursday

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G8サミット京都外相会合北海道洞爺湖サミット を間近に控え
地球温暖化について報じられるニュースが
最近になっていっそう、多くなったように感じます。

温暖化に関連して、気になっていることがあります。
それは “栽培の北限” にまつわる問題。

昨年でしたか、新潟県の佐渡で 
ミカンを青果市場に初出荷したというニュースを見ました。

ミカンといえば、愛媛県や和歌山県、静岡県などの
温暖な地域でとれるイメージですが 
日本海側で流通にのる商品がとれるようになったのは画期的だとか。
やはり暖冬の影響が大きいようです。

これは、温暖化をプラスに転じた例でしょう。
しかしながら、露地栽培される多くの作物と、その生産者にとって 
悪影響もまぬがれません。

いままで長らく、栽培に適しているとされた地域が 
温暖化によって栽培不適になる可能性もあるわけです。
また、気温が上がれば一般的に病害虫が発生しやすくなるため 
農薬散布量が増えるなどのデメリットも生じるのでは …
心配はつきません。

       *   *   *  

さて、茶の木は元来、亜熱帯植物です。
寒冷すぎる場所は、栽培には向かないようですね。

現在のところ、国内での茶栽培の北限は 
秋田県能代市の檜山(ひやま)や、青森県の黒石市あたりですが 
ただ、経済的な(安定的に流通にのりうる)北限でみると 
おおむね、新潟県と茨城県を結んだ付近だといわれます。

これが、数年後には北上する可能性もあるわけです。
まさか北海道とか?

ちなみに現在でも、北海道にも例外的に 
茶の木が育っている場所があるようですよ。
松下智さんの 『日本名茶紀行』 から引用します。

「積丹半島北側の 古平町(ふるびらちょう) の禅源寺には、
 樹齢7、80年と推定される茶樹が、野外に育っており、
 枝張りも2、3メートルに伸びており、
 日本どころか世界的にも
 「北限」 の茶の木と言える貴重なものである」

古平町は北緯43度。
雪中でもけなげに生きる茶の木を思うと、愛おしくなります。
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お茶会のマナー 11 ● 洋服ならば白い靴下を

初めてのお茶会の必携品、これはなかなか盲点なのですが 
和服ならばぜひ、履き替え用の足袋(たび)も用意してください。

もてなす側が、心づくしに清めた場です。
外界のほこりをかぶった足袋のままで汚してはいけません。
自らも清浄な状態になって、席入りするのが望ましいのです。

最近は、足袋のうえからすっぽり履ける 
“足袋カバー” というのがあり、それを用いる人も多いですね。
席入り前にカバーをとれば、きれいな足袋があらわれる、というわけ。

では、洋服で参加する場合はどうするか、というと。

以前、お茶会のマナー 4 でも触れましたが 
ぜひバッグのなかに用意しておきたいのが、靴下です。

200805301251000.jpg

色は、足袋と同じく、無地の白が清々しいでしょう。

とくに、ストッキングや素足で出かける場合には必携です。 
フォーマルな感じのするストッキングも 
茶席では残念ながら、裸足と同等に見られてしまいますから
気をつけてくださいね。

男性は、スーツで参加する場合 
濃色のビジネスソックスをあわせることが多いと思いますが 
やはり一足、白い靴下を携帯して、替えるとよいでしょう。

靴下を替えて足もとを清める、という行為はまた 
席入りへの、心のスイッチにもなってくれますよ。
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工場の壁に、いつからか掛けられている 「茶の十徳」 の額。

200805291441000.jpg

文字どおり、茶を飲むと得られる(?)という10の効用が 
簡潔にまとめられたものです。

柴田書店刊の 『緑茶の事典』 によると、一説として 
京都・栂尾(とがのお) 高山寺 の明恵上人が 
芦屋釜(筑前芦屋でつくられた茶の湯の釜)に鋳つけたものが 
そのはじまり、ともいわれています。
本当ならば、鎌倉前期に誕生した十箇条ということになります。

伝えられているなかでも有名なのが 
上記の額に書かれているものと、ほぼ同内容。
ざっと挙げてみます。

  1、諸仏加護
  2、五臓調和
  3、孝養父母
  4、煩悩消滅(消除)
  5、寿命長遠
  6、睡眠自除
  7、息災延命
  8、天神随身(随心)
  9、諸天加護
  10、臨終不乱

大げさに感じられるものも、多々ありますが。
禅宗の僧侶たちが、こうした明朗なことばを用いて 
布教の際に、茶とそれにまつわる功徳を広めたのでしょう。
名コピーライターです。

ちなみに、異なる内容で伝えられている十徳もあります。
また、中国にも似たような 「飲茶十徳」 があるのだとか。
いずれがオリジナルかは、定かではありません。
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何必館拾遺
何必館拾遺
梶川 芳友
(淡交社)

京都・何必館(かひつかん) の館長、梶川芳友さんが 
美術館の主要コレクションのうち 
村上華岳(かがく)の 「太子樹下禅那(たいしじゅかぜんな)」 など
12の名品たちとの邂逅(かいこう)をつづった随筆集です。

思いがけない出会いとなった作品もあるようで。
非常に印象深かったのが、加藤唐九郎のエピソードです。

ある日、すでに陶芸界の第一人者となっていた唐九郎が 
窯出しで、焼き上がったなかから1点だけを選び 
残りをすべて割る様子が、テレビで放映されました。

若き梶川さんには 「嫌味なパフォーマンス」 に映ったそれを 
後日、唐九郎を囲んでの集まりに居合わせた人々は 
こぞって感嘆しました。

しかし、梶川青年。

「それは下手だからではないですか。
 テレビカメラの前で作品を割る必要はないでしょう」

批判を口にし、周囲の何人かにその場を連れ出されてしまいます。

月日が過ぎ、事件の記憶も薄れかけたころ 
唐九郎からひとつの茶碗が届けられました。
触れた瞬間に 「喉元に刃を突きつけられたように感じた」
それが、紫志野茶碗 「野守(のもり)」 です。

唐九郎が “永仁の壺事件(ウィキペディアの解説はこちら)” で
人間国宝などの名誉ある肩書き一切を剥奪されてのち 
亡くなる数年前のことだったといいます。

名品との、こんなハプニング的な出会いすらも 
実は、梶川さんのたぐいまれなる眼識が 
強烈な引力となってたぐり寄せたものなのでしょう。

さて、この本。
装丁やレイアウトも、何必館自身で手がけたのでしょう。
簡素かつ重厚で、美しい。

また、鑑賞空間に充ちる清浄で静謐(せいひつ)な空気をもとらえた 
吉田大朋さんによる数々の写真も、また見ごたえがあります。
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お茶のことのは ● 茶だんす

  茶器や食器などを入れておくための、
  棚や引き出しを備えた箱型の家具。
            ― 大辞泉 増補・新装版(小学館)より ― 

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和風のキャビネット、といったところでしょうか。
和ブームをうけてか、古道具店でしばしば見かけます。

「茶」 の字があてられているということは 
茶道具をおさめるものが発達したのでは?

… そんな疑問から、ちょっと調べてみたところ
柴田書店の 『緑茶の事典』 に具体的な説明がありました。

「もともと茶道具を置くための茶棚から発達したもので
 違い棚、脇棚、側だんすなどと呼ばれた。
 日本では古来から固定した物入れはおかず、
 行李(こうり)、櫃(ひつ)、長持ちなど
 蓋を開けて出し入れし、移動できるものが使われた。
 引き出しのついた収容具の登場は画期的なこと」

なるほど。

茶棚、つまり “飾る” 目的と 
行李などの “収納する” 目的とが融合し 
茶の間 が登場した江戸末期から明治・大正・昭和にかけて 
庶民のあいだに広まっていったというわけですね。

ちなみに、茶だんすによく似たものとして 
「水屋(みずや)だんす」 ということばもあります。
明確な分類はないようですが、お店などをのぞいてみると 
茶だんすよりもやや大きなものを、そう表す場合もあるようで。

この水屋とは、茶室の隅に設けられていて 
茶事の準備をしたり、使った茶器を洗ったりするスペース。
また、水を扱うところ、という意味で 
かつては、お勝手のことも指していたようですね。
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中曽根康弘元首相、昨日27日に 
卆寿(そつじゅ=90歳)の誕生日を迎えられたそうです。

「長旅も卆寿も新茶も夢の中」…中曽根元首相が句集
(本日付 産経新聞

それを記念しての、今回の句集出版。
句歴は長く、「首相在任中の昭和60年以来2冊目で、
知人の影響を受けて始めた旧制高校時代から
最近までの句を集めた」 ものだといいます。

会見の際に披露した、卆寿の誕生日に詠んだうちの一句に 
お茶が登場しています。

「長旅も卆寿も新茶も夢の中」

この句にこめた思いは、「けんかしたり仲良くなったり、
倒閣やったり倒されたりと、長旅をしてきた。
しかし、卒寿になって新鮮な新茶を飲んでみると、
夢の中にあるような気がする」 ということだそうです。

中曽根元首相は、群馬県の高崎出身ですが
官立静岡高等学校(旧制静岡高等学校)の学生でしたから 
実は静岡ともゆかりがあるのです。

句中の新茶が静岡茶かどうかは、知る由もありませんが …
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静岡県島田市(旧川根町)にある川根中学校の3年生は
地元名産の川根茶の新茶が6グラム入ったパックを
修学旅行先に、ひとり4〜5袋ずつ持参します。

修学旅行先での川根PR任せて
地元の茶業振興会が川根中生に茶パック贈る

(5月24日付 中日新聞 静岡版)

川根といえば、静岡、ひいては日本有数の良質な茶産地です。
生徒たちは修学旅行先で出会ったり、道を教えてくれた人たちに
このお茶のパックをプレゼントするのだとか。

地元産業のいいPRにもなる “小さな観光大使” たち。
今年の修学旅行は今日から3日間、奈良・京都だそうです。

余談ですが、私の親戚にも川根中の3年生がいます。
もし道を尋ねられたら、ぜひ教えてあげてくださいね。
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200805070822000.jpg
亀屋陸奥(京都)製 「松風」

一見、和風カステラ、といった雰囲気ですが 
この店のものは、京都で売られているほかの松風とくらべても 
もちもちと弾力の強めな生地です。

小麦粉や麦芽、白味噌などを練ったものを 
ひと晩寝かせてから鉄鍋で焼き、長方形に切り分けてあります。
白味噌と、けしの実の風味が奥ゆかしく 
噛めば噛むほど味わい深い。
ちょっと焼きなおしても、またおいしくいただけます。

創製は、この店の三代当主。
織田信長の石山本願寺攻めの際、一風変わった兵糧として 
顕如(けんにょ)上人に献じたものだといいます。

10年あまりの、長きにわたる戦いののち 
ようやく京都六条堀川の地に落ちついた顕如上人が 
庭の古松に吹きわたる風を眺めながら 

「わすれては波のおとかとおもふなり まくらにちかき庭の松風」

と詠んだのが、菓銘の由来だとか。
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欧米人の見た開国期日本 ― 異文化としての庶民生活
石川 榮吉
(風響社)

鎖国をといて開国に踏み切ったばかりの日本には 
数多くの欧米人たちが、外交や 貿易 、はたまた異国探訪など
さまざまの目的で訪れました。

人類学者の泰斗、石川榮吉氏が残したこの本は 
彼らの目に映った日本文化はいかなるものだったかを
大勢の旅行記や日記類の分析によって検証している労作です。

そこには、現代の私たちからみても 
近くて遠い国の情景が、こと細かに記されており
まさに “異文化” とよびたくなります。

さて、開国期日本人の食文化を記した章のなかに
「日本人は喫茶・喫煙狂(マニア)」 という項がありました。

男女ともに一日中茶を飲み、煙草を吸う姿や
いつでも茶が飲めるよう、火鉢に常に湯を沸かしてある情景は 
欧米人にとって非常に印象的だったようです。

ただ、お茶の味については、あまり評判が芳しくないようで。

というのも、このころの欧米ではすでに茶文化が根を下ろし
砂糖やミルクを入れる飲みかたが広く定着していたため
日本人がなにも加えずに飲むのを、奇異に感じたといいます。

ロシア提督プチャーチンの秘書官として長崎に来航した 
作家のイワン・ゴンチャロフは 
「味が濃く香気も高いが、砂糖を用いないので
自分たちの口にはあまり合わない」 と評しています。
 
イギリスの初代駐日大使、オールコックにいたっては 
「いかがわしい味がする」 とまで!

そんななか、例外的な人物もいて 
たとえば、ハリスに仕えたオランダ人のヒュースケンは 
下田奉行からもてなされたときの茶を 「旨い」 と記しました。

日本茶とひと口にいっても、さまざまな種類があります。
それぞれ、どんなタイプのものを 
どんなシチュエーションで飲んだのでしょうか?
興味は尽きないところです。
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『横浜・東京  明治の輸出陶磁器
         ― ハマヤキ故郷へ帰る ―』
於・神奈川県立歴史博物館(神奈川・横浜)
2008年4月26日(土)〜6月22日(日)

200805241021001.jpg

今年は、日米修好通商条約の締結から150年。
そして来年は、横浜をはじめとする5港の開港から150年。
これらを記念するイベントが、いま各地で目白押しです。

横浜では、馬車道にある神奈川県立歴史博物館で 
明治期に、西洋への輸出用に横浜や東京で生産された 
“ハマヤキ(横浜焼)” を集めた展覧会が開かれています。

“ハマヤキ” といっても、ピンとこないかたが多いことでしょう。

生糸や とならぶ、重要な輸出品目だった陶磁器。
開港後には、横浜で西洋向けに精力的に生産され 
最盛期の明治20年代には、まさにこの博物館があるあたりに 
70超もの陶磁器商が軒を連ねていたとか。

ただし、横浜近郊でとれる土は焼成に適していなかったため 
瀬戸や京都、九谷といった産地から素地を取り寄せて 
そのうえに絵付と焼成を施したものが多かったようです。

洋食器が多く出品されていましたが 
なかには香炉や茶入(ちゃいれ)といった茶道具もありました。
絵柄には、西洋で好まれる花鳥風月のほか 
東洋的な人物図も多く描かれました。 

現代人の目からすると、突拍子もない図柄もかなりあり 
白磁に色絵と金彩で、屋島の合戦を描いた角皿や 
忠臣蔵の場面を描いたティーセットなども。 
ただ、これらもそうですが、驚くべきことに 
非常に精緻で繊細な絵付で、気のこもった作品が多かったです。

この “ハマヤキ” 、通称 “ハマモノ” といえば 
以前から国内の骨董の愛好家などにとって、奇抜で装飾過剰で 
煩雑な仕事の品も多い、という通念が根強いのですが 
実は、狩野派など、本格的に絵師としての修行を積んだ人物も 
陶画工のなかにかなり存在したといいます。

さて、現代、横浜ではほとんど陶磁器が生産されていません。
衰退の一因は、第一次世界大戦による注文の減少や途絶だとか。 
さらに、関東大震災でも大きな打撃をうけたようです。

ともあれ、輸出のためにつくられたがゆえに 
国内にあまり残ることのなかった、“ハマヤキ” 。
開港の機運にのった人々から発せられる熱気を 
里帰りした作品を媒介として、ぜひ感じてみてください。
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