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  • 2016.03.31 Thursday

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和食のいただき方
和食のいただき方 ―おいしく、楽しく、美しく
塩月 弥栄子
(新潮文庫)

料亭での会食や、茶事の懐石などに
むずかしさ、敷居の高さを感じるというかたに
入門書としておすすめしているのが、こちらの一冊です。

裏千家の家元(14世碩叟宗室)を父にもち
自らも茶道家・華道家であった塩月弥栄子さんが
和食の基礎的な作法を紹介したもの。

もとは、『婦人画報』1982(昭和57)年の連載ですから
専門的すぎず詳細すぎず
ひと通りの基本の心得が、豊富なカラー写真とともに
簡潔な文章であらわされています。

構成は

 第一章  箸と箸づかい
 第二章  おもてなしといただき方
 第三章  懐石料理のいただき方

の全三章。

特筆すべきは、箸と、その扱いについて
全体の三分の一以上のページを費やしているところでしょう。

箸の種類から、持ち方、とり上げ方、動かし方
また、料理に応じた箸づかいのポイントまでと念入りです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
 見た目に美しいいただき方こそが、合理的であり、
 作法に適ってもいるのです。
 箸の持ち方一つ例にとってみても、
 美しい箸づかいは正しい持ち方なのです。
 箸を握りこんだいわゆる 「握り箸」 などの、
 他人の目に醜くうつる箸づかいは、本人も食べにくいはずです。
 茶の湯の点前の所作に
 よく 「手なり」 ということばが使われますが、
 不自然にねじ曲げられたような手の扱いは美しさから遠く、
 作法にも外れていることになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  

長い時間をかけて身体に定着してしまった非合理な箸づかいを
直していくのはなかなか根気のいることかもしれません。

ただ実際、箸の正しい扱いが身につくだけでも
食事をするそのたたずまいが、見違えて美しくなるのです。
張りぼてではない、奥ゆかしくも確かな美しさ。

本式の懐石の作法には細かな決まりごとが多々あるものの
箸の扱いは、その礎といって過言ではないでしょう。

いまは驚くほどたくさんのマナーブックが書店に並び
時にベストセラーになってはまた消えていく時代ですが
この本は古くならない。
内容の質としては時代に消費されない一冊と思います。

用いられている器も、用途にかなった佳いものばかりで
安心してページを繰ることができます。

それだけに、絶版となってしまったことが実に残念です。
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和の庭
和の庭 図案集
(建築資料研究社)

お茶会に招かれて露地を歩くときや
寺社などの素敵な庭園を散策するとき。

庭には、それがいかに簡素でさりげなく感じさせるものであれ
造った人の創意や個性が息づいています。
ですからたとえば、くぐった門や、手を清めた手水鉢の名や特徴
歩いた飛石の配置のタイプなどを知るほどに
思いをいたせる幅が増して、より楽しめるものと思います。

この本は、タイトルに 「図案集」 とあるとおり
和の庭園の構成要素となるもののうち
基本的なタイプをイラストで並べ示した一冊です。

上記のもののほかに
灯籠、蹲踞(つくばい)、垣根、戸、石組なども
代表的なものが紹介されています。

専門書のように難解なテキストはなく
あくまで図案と名称(とその読みかた)が中心です。
イラストの描きかたもシンプル。
それぞれほぼ単体で、モノクロ線描中心にて表現されています。

名庭の実例写真のように背景まであるものにくらべ
対象物の特徴がすっと把握しやすいのが最大の魅力と感じます。

『図解 庭造法』 とあわせて手もとに置いておけば
和の庭の基本型が、かなり網羅的にカバーできるのでは。
次回の庭園訪問がますます心待ちとなることでしょう。
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料理に
料理に 「究極」 なし
辻 静雄
(文春文庫)

料理によって器をさまざま変える、という
おそらく日本料理ならではと思われる特質。
これ、いつごろ何の影響からはじまったのでしょうか。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
 熊倉功夫氏
 「やっぱり、十七世紀になって
 お茶がはなやかになってからですね。
 たとえば精進料理では全部、朱塗りとか黒塗りの器です。
 これは本膳料理もそうですね。
 ところが、茶になって初めて、
 織部の鉢が出てきたり、京焼が出てきたり、
 料理に合わせた器を選ぶようになるんです。」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
 梅棹忠夫氏
  「(他国で器をそのたび違うものにとりかえて食べる文化は)
 ありませんな。
 中国はもちろんありませんし、インドもありませんね。
 東南アジアもアラブもみなないですね。
 さまざまな器をたのしむというか、
 料理によってちがうかたちの器をつかうという文化は
 日本だけでしょうね。」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  

すぐれた陶工と眼力あるショップが少なくない昨今は
普段の食事でも器づかいを楽しむ家庭が増えてきたようですが
歴史をひもとくと、茶の湯の大成、茶懐石の誕生ということが
大いに関わっていたということなのです。

日常の延長線上にある非日常、を愉しむ茶の湯の文化から
家庭の食卓の楽しみに還元されているものがあるというのは
なんだか面白いなあ、と感じます。

日本料理についての、こんな話題まで言及されている
フランス料理研究の第一人者、辻静雄氏の遺稿集。

一本は、民族学者の梅棹忠夫氏と。
もう一本は、歴史学者で茶の湯への造詣も深い熊倉功夫氏と。
辻静雄氏と、ふたりの専門家との対談はそれぞれ
食の特質の比較ということをとおして
文明論にまで展開していくさまが非常に面白いのです。

ほかにも、雑誌への寄稿あり、講演を書き起こしたものあり。
話題もフランス料理を軸にしながら、実に多彩です。

単なる料理トリビアではなく
会食ということの喜びと奥深さを教えてくれる一冊です。
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季語百話
季語百話 ―花をひろう
高橋 睦郎
(中公新書)

おぼろげに抱いていた先入観、の不確かなことが
世の中には本当に多くて
それが揺さぶられる愉しみもまた
本というものの離れがたい魅力ではないかと思います。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
 歳時記も季語も日本人の発明ではない。
 その原型である暦は、
 はるか古代に、中国から海を渡ってきたものである。
 この暦をもとに和歌の季詞(きのことば)が生まれ、
 連歌・俳諧を経て俳句の季語に承(うけつ)がれた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
 日本人は先進国中国をお手本に梅を愛でたが、
 やがて自前の花がほしくなって桜を発見した、といわれる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  

こんな、あらためての気づきや驚きをもたらしてくれる
「はじめに」 の文章に、いやがうえにも期待が高まります。 

朝日新聞の土曜版 「be on Saturday」 に
高橋睦郎氏の 「花をひろう」 というコラムがあり
いわゆるflowerのみならず、「花なるもの」 をテーマに
毎週、時節にかなう季語がひとつずつ紹介されます。
この本には、そのうちの100篇がおさめられています。

春は 「梅」 「椿」 「萌ゆ」 「野遊」 「桜」 …

夏は 「新緑」 「青葉」 「杜若」 「田植」 「黴(かび)の花」 …

秋は 「秋草」 「木槿」 「星」 「月」 「紅葉」 …

冬は 「茶の花」 「木枯」 「枯野」 「大根」 「水仙」 …

それらをよんだ句歌詩文がさまざま紹介されるのも魅力で
それも日本のものに限りません。
今の時節ですとたとえば、「桃の花」 の項には
中国周代の歌謡集 『詩経』 におさめられた詩や
晋代の陶淵明の作品などもひかれています。
桃は梅と同じく、大陸から伝わった植物なのですよね。

身近にある、さまざまな風物をあらためて読みなおすことで
今まで自分には見出せなかった情景や表情が見えてくるのが
この本の面白さであり、また句歌の面白さでもあると感じます。
茶の場における、季節の風物への気づきもまた違ってきましょう。

新聞連載自体はまだ続いているので、この新書の続編か
あるいは、紙面で用いられた写真もあわせて掲載した
完全版のようなものが刊行されるのを期待しています。
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男の作法
男の作法
池波 正太郎
(新潮文庫)

もとは昭和56年に単行本が刊行されたようですが
こちらの文庫版は、昭和59年の発行。
私の手元にあるものは12年前、平成12年3月時点で48刷。
現在は何刷になっているのでしょう、ロングセラーの一冊です。

「鮨屋へ行ったときはシャリだなんて言わないで
 普通に 「ゴハン」 と言えばいいんですよ。」

という冒頭の章の見出しからして、どきりとさせられます。
鮨屋独特の合言葉、符牒(ふちょう) ですね。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
 飯のことをシャリとか、箸のことをオテモトとか、
 醤油のことをムラサキとか、あるいはお茶のことをアガリとか、
 そういうことを言われたら、
 昔の本当の鮨屋だったらいやな顔をしたものです。
 それは鮨屋仲間の隠語なんだからね。
 お客が使うことはない。
 
 普通に、
 「お茶をください」
 と言えば、鮨屋のほうでちゃんとしてくれる。

 だけど、いま、みんなそういうことを言うね。
 鮨屋に限らず、万事にそういう知ったかぶりが多い。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  

こんな具合の、筆者お得意の 「食」 にまつわる
ちょっと耳の痛いような話題から
住まい、服装や装飾具、また人間関係のこもごもにいたるまで

「かつては 「男の常識」 とされていたこと」

の数々が語られる一冊です。

語られる、というのは、もともと
筆者自身の若い友人を相手に語った内容の書き起こしが
この本のベースとなっているから。
なので、文体に堅苦しさはまったくありませんし
若いかたにこそ(女性も)楽しめる内容では。

お茶についての直接的な話題というのは、ほぼないのですが
心に残ったのが、「寿命」 「運命」 「死」 「生」 の一連の項。
話題が多岐にわたるなかで、しかし、この本を通底する精神は
ここで語られていることに尽きるように思えました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
 男は何で自分をみがくか。基本はさっきもいった通り、
 「人間は死ぬ ……」
 という、この簡明な事実を
 できるだけ若いころから意識することにある。
 もう、そのことに尽きるといってもいい。
 何かにつけてそのことを、ふっと思うだけで違ってくるんだよ。
 (中略)
 そうなってくると、自分のまわりのすべてのものが、
 自分をみがくための 「みがき砂」 だということがわかる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  

自分に与えられた有限の時間の、密度のようなものが
ちょっとした意識の置きようによって随分変わってくると感じますし
だからこそ、日々の些細を愛おしく、大切に暮らせるということ。
それが自身の 「みがき砂」 となること。

これ、茶の湯でいうところの
「一期一会」 にもまさに直結するありようと感じました。

大きな震災からもうすぐ一年。
この本の投げかけるものにはまた、様々な感懐が重なります。
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ふじさん、と、語呂あわせができる今日2月23日。

残念ながら今日は今のところ本降り。
こちら藤枝市からは富士山をのぞむべくもないのですが
かわりに、富士を描いた掌編を読み返してみました。

富嶽百景・走れメロス

富嶽百景・走れメロス 他八篇
太宰 治
(岩波文庫)

青空文庫にも収録されています。
→ 「富嶽百景」 太宰 治 (青空文庫) ※html版

この作品、冒頭のあたりでは

「ニツポンのフジヤマを、
 あらかじめ憧れてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、
 さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、
 素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、
 そのことになると、多少、心細い山である。」

とつづっている太宰。

ところが、山梨の御坂峠にある茶屋での滞在をとおして
富士をめぐる思いの変化が
はからずも鮮明に立ち現れる形となってくるところも
この短編の面白さと感じます。

いいな、と感じたところを抜き出すのも困難なくらいに
終始魅力的な作品なのですけれども
今日は天候も天候ですから、この部分を。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
 パノラマ台には、茶店が三軒ならんで立つてゐる。
 そのうちの一軒、
 老爺と老婆と二人きりで経営してゐるじみな一軒を選んで、
 そこで熱い茶を呑んだ。
 茶店の老婆は気の毒がり、ほんたうに生憎(あいにく)の霧で、
 もう少し経つたら霧もはれると思ひますが、
 富士は、ほんのすぐそこに、くつきり見えます、と言ひ、
 茶店の奥から富士の大きい写真を持ち出し、
 崖の端に立つてその写真を両手で高く掲示して、
 ちやうどこの辺に、このとほりに、こんなに大きく、
 こんなにはつきり、このとほりに見えます、と
 懸命に註釈するのである。
 私たちは、番茶をすすりながら、その富士を眺めて、笑つた。
 いい富士を見た。
 霧の深いのを、残念にも思はなかつた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  

今日のような日にもまた同じように
山梨や静岡のどこかで繰り広げられているかもしれない光景。

茶店の老婆の可愛らしさにくわえて
この引用部の直前にある、同行している師の井伏鱒二が

「岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた。
 いかにも、つまらなさうであつた。」

との表現もユーモラスで
軽快な心持ちになれる、人を愛おしく思えるあたたかなくだりです。
こんな太宰もあるのだよなあ、と。
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大森貝塚を発見したことでもその名を知られる
アメリカの動物学者、エドワード・シルヴェスター・モース。

彼が来日したのは、明治時代。
1870年代後期から80年代初期にかけての計3回で
あわせて2年半足らずだったといいますが
その間に、日本の写真や、陶磁器等の民具を多く蒐集していて
現在はかの地の博物館にて保管されています。

そんな数多くの蒐集品のなかから、民具を中心として
明治初めごろの日本人の習俗について紹介しているのが
こちらの一冊です。

モースの見た日本
モースの見た日本 −モースコレクション[民具編]
構成 : 小西 四郎 + 田辺 悟
(小学館)

実にさまざまな文物が登場するのですが
なかには、お茶まわりに関連するページもあって
たとえば 「茶店・茶道」 の項には
街道筋らしき 茶屋 の様子をおさめた着彩写真と
抹茶を点てるための茶筅、陶製の茶碗が載っています。

あわせて引用されているモースの日記に

「日本では身分の上下にかかわらず、
 一日中、誰もが、ちょくちょくお茶を飲むのである」
 
「友人の家でも店でも、
 行くさきざきでかならずお茶が出されるのは、
 日本の気持ちのいい特徴のひとつである。
 その場所がいかに貧しく、賤しくとも、この礼儀は欠かさない」

などといった記述があるのも
今日失われつつある習慣という点で非常に興味をひかれます。

そして、こちらが古写真の紹介に特化した一冊。

百年前の日本
百年前の日本 −モースコレクション[写真編]
構成 : 小西 四郎 + 岡 秀行
(小学館)

景色や人々の暮らし、風俗等がおさめられたもののなかから
約300点が掲載されています。
この国が失った美しいものの大きさに、ただ驚かされます。

お茶まわりでは
「農村・漁村」 の章で登場する、計7枚の 「製茶」 の光景。

明治に入り、重要な輸出品として注目が高まった日本茶。
製茶機械が発明される 前の、手製の時代の写真からは
妻や子ともども、一家総出で働く様子もうかがえます。

うち2枚ある茶摘みの光景は、ともに静岡のもの。
製茶同様、摘むのもやはり、手で一芯ずつの時代でした。
上質な走りの茶葉などは現在でも手摘みするものの
主流は機械摘みとなっています。

写真に添えられたキャプションにも書かれているのですが
茶摘みの歌に歌われるような 「茜だすきに、すげの笠」 ではなく
女性たちの多くが、手ぬぐいを姉さんかぶりしているんですね。

そんな細かな気づきも、面白く感じる一冊です。
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図解
図解 庭造法 ― Landscape Gardening in Japan
本多 錦吉郎 著  ジョサイア・コンドル 英文解説
(マール社)

この 『図解 庭造法』 は、もともとは
日本の伝統的な庭造りについての図版(リトグラフ)に
科学的で簡潔な解説をくわえた形で
1890(明治23)年に発行された本です。

著者の本多錦吉郎(きんきちろう)は、明治期の洋画家。
茶を好み、また庭園設計も多く手がけた多能な人物です。

鈴木誠氏の解説文によれば
嘉納治五郎や井上馨の邸宅の庭園にもかかわったとか。
1910年の日英博覧会にて賞賛を浴びた日本庭園もまた
錦吉郎の設計だったといいます。

本書におさめられた数々の図版は彼の手によるもの。
仮山(かざん;築山のこと)や、平坦な平庭(ひらにわ)は
「真(しん)」 「行(ぎょう)」 「草(そう)」 の様式ごとに。
また、茶庭や、さまざまなスタイルの庭園の図範に
燈籠や手水鉢、垣、橋、門扉といったもろもろの付随物まで。

洋画家らしく、遠近法をとり入れた表現は
昨今の写真によるものと比しても距離感などを掴みやすく
実際の庭造りの参考になることはもちろんですが
図版を眺めるだけでも充分に愉しめるかと思います。

西洋的な遠近法、ということで、欧米のかたの目にもなじみやすく
また、ひいた庭園の型が典型的・網羅的であることからでしょう。
イギリスの建築家コンドルが英文で著し、1983年に発行した
『Landscape Gardening in Japan』 という本のなかでも
この錦吉郎の図版は説明図として引用されたのだそうです。

本書にはその、コンドルによる英文もあわせて収録されています。
外国のかたへのプレゼントとしても喜ばれるかもしれませんね。
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茶の湯の宇宙
茶の湯の宇宙
小堀 宗実
(朝日新書)

「茶の湯が大切にしてきた心のあり方や美意識を、
できるだけ親しみやすい形で」 伝える入門書。

とても平易なことばでつづられていますので
お茶の世界にふれたことのないかたには
その入口に立って中をのぞいてみるような
新鮮な楽しさのある一冊かと思います。

たとえば、茶の湯の心得として有名な
「利休七則」 について触れた項があります。

「利休七則」 というのは、非常にシンプル。

 茶は服のよきように
 炭は湯の沸くように
 夏は涼しく冬は暖かに
 花は野にあるように
 刻限は早めに
 降らずとも雨の用意
 相客(あいきゃく;招く客の組合せ)に心せよ

… といった、まさに “基本のき” の内容なのですが
これが、とくにお茶事の本番となると
すべてに心を配ることはしごく難しいのです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
 これらを聞いたある茶人が
 「それなら、誰でも知っていることです」 と言うと、
 利休は、「これらのことがすべてできたなら、
 私はあなたの弟子になりましょう」 と答えたといいます。

 「利休七則」 は、誰もがわかっていることを、
 自然に行えることの奥深さを説くのと同時に、
 知識として知っていることと、それが実践できることとは
 まったく違うのだという教えでもあります。
 言い換えれば、誰でもわかっていることを、
 当たり前にできるようになることこそが、
 もてなしの真髄なのだといえます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  

お点前をなぞって、型の再現をするだけが茶の湯ではない。
そうしたあたり前のことを、再確認させていただきました。

著者の小堀宗実氏は
大名茶人の小堀遠州を流祖とする遠州流のお家元ですが
型などの差異以前に、どの流儀であっても変わらない
その礎となる心のありようを思い出させてくれる
初心に立ち返れるという意味でも貴重な一冊かと思います。
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雛を包む
雛を包む
有吉 玉青
(平凡社)

和紙のさわさわと柔和な音が聞えてきそうなタイトルと
折形の写真が用いられたカバーの質感も印象的な一冊。

有吉さんには、茶の湯のお稽古のこもごもを綴った
名エッセイ 『お茶席の冒険』 がありますが
こちらの 『雛を包む』 は、お茶席のことばかりに限らず
さまざまの日本的なるものに想いを寄せたエッセイが
37篇、おさめられています。

雑誌や新聞などに掲載されたものが集められているため
文体や、語り調子の硬さなどが一貫していないのが
ときに流れを緩慢に感じさせて唯一の残念ではあるものの。

一篇ごとに、身近のさまざまなものへのやわらかな気づきを
その慧眼をとおして見せてくれます。

茶の湯以外のお茶まわりで印象に残ったエピソードは
「終わらぬ夜」 という一篇の、さる料亭での食事のひと幕。
水菓子までひととおり食べ終えたあと、著者はふと気づきます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
 お茶を熱いものと替えていただいて気づいたことには、
 お茶碗の地模様の縞が茶色い。
 さっきまでのお茶碗は青い縞だった。
 その前は赤いお茶碗。
 さらに前は赤絵のお茶碗。
 ぼんやりしていて、今ごろいつも違う柄だったことに気づいたが、
 それでもすべての柄を覚えている。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  

実になにげないのだけれども、示唆的な話だなあ、と感じます。

出されるたびにお茶碗が違っているということ。
これは、高級料亭ならではの
客への贅沢なサービス、眼の愉しみというだけの話にとどまらず。

先ほどと一見して趣の異なる器で出すということは、つまり
新しい清潔な茶碗にきちんと取り替えて
あらためて淹れたお茶が出されたことへの、暗黙の了解でもあり。

(自分が客人をもてなす際にも留意したいことでもありますね)

おいしい料理に集中するあまり、あるいは緊張感のあまり
はたまた、仲居さんがこともなげに
「さりげなくひそやかに」 心配りして淡々と動いてくれるほど
そんな小さな変化に全く気づけない場合もあるけれども。

だからこそ、相手の思いをさりげなく汲む楽しさも存在するわけで
そんな細やかなところに心を向けることのできる著者の感性を
とても眩しく感じました。
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