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  • 2016.03.31 Thursday

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日々ごゆだんなきよう ―
日々ごゆだんなきよう ― 幸せを呼ぶ礼法入門
上田 宗冏
(角川書店)

「日々ごゆだんなきよう」 との
奥ゆかしくも凛々しい表題にひかれて手に取った一冊。

上田宗箇(そうこ)流の家元、上田宗冏(そうけい)氏による
親しみやすく、ごくごくやわらかな内容の礼法入門書です。

といっても、茶の湯に特化した内容ではなく。
呼吸法にはじまり、立ちかたや座りかた、お辞儀
また、きれいに見える物の持ちかた、といった
基本的な所作についてや

「挨拶をしましょう」
「言葉づかいを大切にしましょう」
「人の話を聞きましょう」
「自然の音を聞きましょう」
「朝に簡単な掃除をしましょう」

等々、日々の暮らしをねんごろに送るための
一見とてもシンプルながら、案外おろそかにしがちなことまで。

とくに若年女性を意識して編集された本のようですね。
ただ、老若男女どなたでも楽しめる内容かと思います。

さて、表題の 「日々ごゆだんなきよう」 は
「一瞬一瞬を大切に過ごしましょう」 という項のなかで
紹介されていることばです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一日は一瞬の積み重ね。
 一日を豊かに過ごすためには、
 一瞬一瞬をゆだんなく過ごすことが大切です。
 私の禅の師匠であるご老師は、
 接心(七日間集中した修行)の最終日に、必ず
 「今日で接心は終わるが、日々ごゆだんなきように」
 とおっしゃいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

油断しない、とは、一時も休まず身構えているということではなく。

時 人を待たず、なんてことばがありますけれども
今この瞬間にも過ぎ去っていくひととき、ひとときを
慈しむように大切に過ごすということなんですね。

女性誌などで 「丁寧な暮らし」 ということが言われて久しいですが
そのおおもとの礎となる自らの心身のありようについて
時おり、確認するようにページを開きたくなる一冊です。
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お茶が熱くてのめません ―Tanabe
お茶が熱くてのめません ―Tanabe Seiko Collection 4
田辺 聖子
(ポプラ文庫)

ポプラ文庫から出ている、田辺聖子さんの短篇集シリーズ
「Tanabe Seiko Collection」 のなかの一冊です。

このシリーズ、かつて発表された作品の再収録なのですが
巻によってそれぞれテーマが異なっていて
この 『お茶が熱くてのめません』 には
別れた男女の、その後の心の機微を描いたものが集められています。

表題作になっている 「お茶が熱くてのめません」 は
かつての恋人との、7年ぶりのつかの間の再会の物語。
というと、なにやら色っぽいものを想像してしまうのですが、いやいや。

自分と同世代とおもわれる主人公女性の、微妙で気まずい心模様が
はじめて読んだ20代のころよりも共感できたり。
短い話なので、筋をここに紹介するのは控えますけれど
田辺さんの作品は、会話の運びがほんとうに面白いですね。
そしてこのオチ、なかなか身につまされるものでした。

舞台はほぼ、主人公の女性の仕事場ひと部屋に終始します。
そこでの彼らの語らいと、主人公の女性の心情を追うのに
タイトルにも登場するお茶が、いい小道具になっているんですね。
それも、ふたりはほとんど口にしない。

一般に、小説や映画で、日常風景の演出としてお茶が登場しても
それがなぜか、とってつけたような感じがしたりして
どこか浮いてみえてしまうものも少なくないように思うのですが。

この物語のお茶は、さりげなく、しかし要所でぴりっと
リズムづくりに効いていて。
そんなところもユニークに感じながら読みました。

この 「お茶が熱くてのめません」 は
角川文庫の 『ジョゼと虎と魚たち』 にも所収されていますよ。
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今週に入り、雪のたよりが相次いで。
また今朝は、山頂付近に雪をいただいた富士山が
こちら静岡県中部からもよくのぞめます。

雪、と聞いて、ふと
この本のなかの、雪とお茶のある情景を思い出しました。

201111160859000.jpg

畦地梅太郎の 『12のめるへん』 (あとりえ・う) という
12の短いエッセイと版画からなる版文集。

いちばん最後におさめられている 「雪の座」 という一篇です。

神奈川県、西丹沢の1293メートルの山 「畦が丸」 に
(畦地の 「畦」 の字がついている、という思いつきもあって)
4人の子らとともに登った思い出がつづられています。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  
 沢を渡り、原始林のなかをくぐり抜け、
 やっと登りついた頂上は、
 深い残雪を立木がとり囲んでいるだけの
 なんの変哲もないところだった。
 
 見晴らしを楽しみにしていた一行は残念がったが、
 雪を踏み固め、たき火をして腰をおろし、車座になって
 かつぎ上げたものを口にしながらお茶を飲んでいると、
 いつの間にかあたりの景色が、
 みんな親しげな感じになった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  

残雪のなか、素っ気ない景色に親和をおぼえたそのときに
家族みなで飲んだお茶がともにある、この情景。

喫茶去、まあお茶でも。
そこで彼らが冷えた身体をあたためたのがどんなお茶なのか
あるいはコーヒーなのかはわからないけれども
なにか、喫茶のひとつの本質をあらわしているように感じます。
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消費者をやめて愛用者になろう! 割ばしから車まで
消費者をやめて愛用者になろう! 割ばしから車まで
秋岡 芳夫
(復刊ドットコム)

「消費者をやめて愛用者になろう」
との副題が、シンプルながら実に考えさせます。

秋岡芳夫氏。

いいものを大事に永く使う、という
昨今ようやく見直されつつある、このことを
高度成長社会、消費の時代のただ中に
一線の工業デザイナーでありながら提言し続けた人です。

この本は、現在 目黒区美術館(外部サイト) にて開催中の
『秋岡芳夫展 モノへの思想と関係のデザイン』 に感銘を受け
展覧会場にて購入しました。

もともと昭和46年に発行されたもので
今回の展覧会をきっかけに復刊されたようです。

先日、世界の人口が70億人を超えたとの報道がありましたが
その半分ほどの36億の時代に
「つくりすぎ、集りすぎ、使いすぎの公害」 に警鐘をならし。
“MOTTAINAI” が流行るずっと前から
「ケチのすすめ」 ということを口にし。

また、消費社会のからくりや
企業の収益性、生産性ばかり優位の
「あっても無くてもいい程度の <あいまいな物>」 づくりに
疑問を呈したという点でも先進的だったのが、この一冊。

なかでも、<虚業> と <里産業> について記した第珪呂
氏がその後に取り組んだ
裏作工芸による 「一人一芸の村」 構想や、オケクラフトの例など
東日本の地域社会のデザインへと展開していく提言であり。

<里産業> と称されるそのありようは、今日、手工業にかぎらず
たとえば私どものような農にかかわる産業の中小企業にとっても
もっと元気になるためのヒントとなる話題の宝庫でもありました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 
 ぎりぎりのいい物を創るため、
 社長もみんなと一緒に作業服を着て物を創っている会社。
 みんなで一生懸命 <いいもの> をと心掛け、
 よく出来た分だけ高く製品が売れる会社。
 給料がすごくよくて働き甲斐のある会社。
 日本に一軒しかない会社。
 そして、商売仇のない商売。
 だんだん小さくして行く会社。
 小さくしながらもうかる会社。
 しかも決してつぶれない会社。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 

仕事はこうありたい、こうしていきたいと折々に考えていることを
端的にあらわしたことばの連なり。
いちいち膝を打ちながら読みました。

そして、「虚業会社でない、ほんものの会社」 に
自分たちの会社を育んでいくこと …

「<いいもの> は <いい暮らし> の中からしか出来てこない」
とも、また氏は述べています。

いいものが自分を育ててくれる。
本当に喜んでいただけるものをつくり出すために
作り手であると同時にまた生活者でもある私たちが、また
自分たち自身の暮らしをおろそかにしないことも、大切。

基本でありながら、つい忘れがちになるそのことも
あらためて思い出させていただきました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 
 本来的な職人的物づくりだと、
 作ることも楽しいはずです。
 使う者もまた楽しいはずです。
 使い捨てるなどもっての外のことなのです。
 いい意味での職人的な物づくりなら、
 作り手と、売り手と、使い手とが、
 心を組み手をつなぎ合い、
 丸い丸い、よい人間関係の円がつくれると私は思っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 

暮らしと仕事、作り手と売り手と使い手。
お互いの楽しさが循環し、また重なり合うとき
対価や代金以上のものを生ず真の有意義を思います。
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千利休
千利休
桑田 忠親 著  小和田 哲男 監修
(宮帯出版社)

昭和56年、中公新書刊の、すぐれた利休本の一冊
『千利休 ― その生涯と芸術的業績』 が
今夏 『千利休』 のシンプルなタイトルにて復刊されました。

「秀吉と利休 確執の真相は」
という、帯のダイナミックな文言が目を引きます。

 第一章  七十年の生涯
 第二章  利休処罰の原因と動機
 第三章  利休の芸術的業績
 第四章  利休の書と人物
 第五章  利休流茶道の系譜

という章立てとなっていまして
秀吉との確執と賜死の理由については
第二章を中心にページをそれなりにさいてはいるものの
しかしながら、そこにばかり終始した内容ではありません。

むしろ、全五章をとおして
利休という人物の全体像を捉えようとする試みの一冊です。

個人的に、この本の魅力を支えているのは
第三章の 「利休の芸術的業績」 ではないかと思っています。
茶の湯の世界における彼の特質、仕事の業績を
多くの古文献にあたりながら具体的に浮彫りにしています。

たとえば、利休は単に 「茶湯者」 「数寄者」 にとどまらず
茶の湯の 「名人」 であった、といわれますが。
この 「名人」 という、今日では漠然と用いられがちな呼称も
著者は 『山上宗二記』 の記述を引用するなどして
具体的な意味を読者と共有する丹念さに満ちています。

利休の茶を理解するためのキーワードが多く出てきたなかで
印象的だったのが 「手上手(てじょうず)」 ということ。
つまり、利休は、道具の目利きや作意に富んでいたのみならず
点前そのもの、また点て方にも長けていたということです。

著者によれば、この 「手上手」 ということは
利休以前の茶ではあまり重視されていなかったといいます。

「手上手」 な亭主と座を共有するときの、心地よい一体感や
なめらかな茶を服すさいの感覚的な喜びを思うほどに
利休という人物の茶が多くの人を惹きつけた理由が
より深く理解できるようにも感じられました。

また、第四章 「利休の書と人物」 に収録されている
「利休人物論」 も非常に面白いです。
利休が登場する近年の文学作品のキャラクター設定などに
桑田氏の人物論の影響は少なくないのではと思わされます。

この本、大きくは学術書の類に入るものでしょうが
もとが新書ということもあり、それほど難解ではありません。
茶の湯をはじめたばかりのかたや
戦国史の好きなかたにも心愉しい一冊ではないでしょうか。
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浅川伯教の眼+浅川巧の心
浅川伯教の眼+浅川巧の心
伊藤 郁太郎 監修
(里文出版)

柳宗悦に朝鮮古陶磁の美を開眼させたことで知られ
現在、全国4会場を巡回している展覧会
『浅川伯教・巧兄弟の心と眼 ― 朝鮮時代の美 ―』 の主人公
浅川伯教(のりたか)・巧(たくみ)兄弟を紹介する一冊です。

浅川兄弟を広く紹介した功績者、高崎宗司氏のインタビューや
複数の研究者による論文、またコラム等が収録されています。

とくに、今日、関連する出版物が多くなく
弟・巧にくらべ評価がすすんでいないと感じる兄・伯教について
本書では多くのページがさかれているのが魅力です。

なかでも面白く読んだのが
巻末の、伊藤郁太郎氏と熊倉功夫氏の対談。

彫刻家として出発し、画や陶芸や書にも力量を発揮し
朝鮮古陶磁研究の第一人者であり、古文献蒐集に熱を注ぎ
近代数寄者と茶を通じ対等に向き合うことのできる …

そんな、民藝の枠におさまりきらない
安易にカテゴライズしにくい個性をもつ伯教のことを
熊倉氏が、本来的な意味での 「数寄者」 だと語った瞬間
目からうろこの落ちるような思いがしました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 伯教さんというのは、茶の湯者というか数寄者なんですね。
 数寄者という側面が
 たぶん民藝の人たちからは鼻持ちならないところなわけで、
 しかし茶の湯の側からいうと、
 柳さんには魅力を感じないけど伯教さんは受け入れられる、
 ちょうど両方にまたがる位置に伯教さんはいたのかなと、
 それが私の浅川伯教のイメージなんです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

この熊倉氏のことばを契機に、ふたりの対談が
伯教をどう評価するか、というところにとどまらず
民藝というものの捉えなおしなどにも発展していくのですが
予定調和的でない刺激的な内容で、非常に愉しいのです。

また、現在の巡回展で紹介されている伯教旧蔵品のなかで
私が個人的に後ろ髪をひかれてやまなかった
鶏龍山(けいりゅうざん)の茶碗、銘 《新両国》 。
それが、伯教の長女・牧栄さんの手から
大阪市立東洋陶磁美術館に収蔵されるまでの逸話も出てきて
つい涙腺がゆるみました。

巡回展の、またその図録の、副読本として以上の魅力が
この本にはあると感じます。
彼らは民藝関連の人物であるという先入観にとらわれず
茶をするかたにも手にとっていただきたい一冊です。



<< 今日の記事のおもな関連記事 >>
 ◆ 2011/04/25 「白磁は、ふたりを忘れない。」
 ◆ 2011/08/01 「『白磁の人』 映画化が再始動」
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作家のおやつ
コロナ・ブックス 144
作家のおやつ
(平凡社)

31人の作家が食した 「おやつ」 を
本人の随筆など作品からの引用や
ゆかりの人々のコメントなども交えて多々紹介する一冊です。

文士が中心ではありますが
手塚治虫や植田正治、市川崑なども紹介されていて
顔ぶれは硬派ながら、比較的幅広いですね。

印象的だったのが、小津安二郎の、通称 「グルメ手帳」 。
鎌倉文学館にのこされているというその手帳には
料理店や菓子店の、名前や所在地が細かに記されており
さらにお店によっては手書きの略地図まで付す丹念さ。
つらつらと並ぶ文字の、インクのかすれやにじみも美しくて。

お目あてのおいしいものを買い求めに、あるいは食しに歩く
その道のりの情景までもみえるよう。
ふわっと時間の流れが変わるような、不思議な感覚を
このページにはおぼえました。

甘いものには親和をうながす魔力があるというか
たとえば小津安二郎なら
神保町・柏水堂さん日本橋・長門さん など …
自分がよく足を運ぶお店や、好きなお茶うけが出てくるたびに
その作家への親近感がぐんと増すのも楽しかったです。

この本に紹介されているお菓子には
現在でも求めることのできる老舗の銘菓が少なくありません。
巻末に、紹介されたお店のインデックスも掲載されていますよ。
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新しい住居―つくり手としての女性
新しい住居 ― つくり手としての女性
ブルーノ・タウト   斉藤 理 訳
(中央公論美術出版)

ナチス政権から逃れるために3年あまり日本に亡命し
桂離宮をはじめとする日本建築の美を評価するなど
わが国にもゆかりの深いドイツの建築家、ブルーノ・タウト。

タイトルのとおり、住宅について書かれたものですが
単なる建物の形状、表層の部分の改善策にとどまらず
そもそも、その土台となる暮らし手、とくに
当時の、日々の雑事に追われていた主婦たちに
「どう住まうべきか」 という前向きな意識改革をもうながしていて。

「女性こそがそもそも住まいのつくり手」 と断言する本書は
タウトの住宅観を知るうえで面白い一冊と思います。

さて、たとえば、靴を脱いで上がる生活様式をはじめとして
日本建築の特徴的なデザインやその特質が
話を展開する上での引き合いに出されることも多い、この本。

「住居内に山と積まれた余計な物」 除去の重要性を説く部分では
床の間のある和室空間を紹介しています。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本では、必要なき場合には
 基本的に室内に全く家具を置かないという事実こそ、
 我々にとって核心を突く事柄なのである。
 … (中略) …
 特別な折に掛ける絵を飾るためだけの
 正式なニッチ(床の間=家庭祭壇)と
 その隣に茶道具のためのニッチが見られる。
 その他の壁は、非常に淡い感じの木柱と、
 微かに囁くような趣の絵画があるだけなのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「微かに囁くような趣の絵画」 との表現が詩的で素敵です。

大型家具が置かれていない、こざっぱりとした和室といえば
“お茶まわり” では茶室がまさにそうですね。
ポータブルなものを、折々、シーンにあわせ持ちこむことで
その空間に意味を付与することはすれども
使用時以外には片付けて、フラットな状態に保たれています。

空間が暮らすことのうつわであると、あたらめて実感します。
住まいかたがずいぶんと洋風化し
かつ、ものに溢れた現代の私たちにとっても
この本の説く 「不用品の除去」 は耳の痛いところかもしれません。

ところで。
久しぶりに再読してみてどっきりとしたのが、この箇所です。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この(日本の住文化の空間的な)厳格が、
 先頃の大震災後の復興事業によって
 失われない事を願うばかりだ。
 日本人が独特の住宅文化を
 鉄筋コンクリートのような新しい耐火材料を以って継承し、
 それをさらに発展させていくことを願わずにはいられない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

この本が上梓されたのが1924年ですから
「先頃の大震災」 は、1923年の関東大震災のことですが。

今日の日本の住宅をみて、タウトはどう感じるでしょうね。
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無盡蔵
無盡蔵
濱田 庄司
(講談社文芸文庫)

先日訪れた 『濱田庄司スタイル展』
この本から、彼のことばが多数引かれていたこともあって
あらためて再読してみました。

どきりとした、印象的なことば。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 物に出合っていいなと思うときは、私が負けた証拠だ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

この人のいう 「負けた」 は、実に清々しい。

一般的には、尽きることのない、というような意味で用いられる
表題の 『無盡蔵(むじんぞう)』 ということばを
「ことごとく蔵するなし」 と読みたい、とも書いた濱田。
そんな、熟達してなおフレッシュで錆びなき感性を
如実にあらわす一文と思いました。

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 普通蒐集家は総べてを揃えるとか
 珍しいものを見つけるとかに値打ちをかけますが、
 私は完全に揃うことも、稀少価値を誇ることも、
 それほど関心がありません。
 素直に心打たれたもの、或いはとても及ばないと思って、
 自分が負けたものに一番心を惹かれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 

負け、から始まるモノとの暮らし。
その紡がれる時間の豊かさを思います。

この本は、こうした蒐集についてのほかに
もちろん、自身の作陶についても多く書かれていて
“お茶まわり” 的には、抹茶碗づくりの試行錯誤などの
制作の裏側といいますかの、興味深いくだりもありました。

また、自伝としても面白く読める一冊です。
柳宗悦、バーナード・リーチ、河井寛次郎、富本憲吉、芹沢げ陲
民藝運動の主軸にいた人々はもちろん
東京高等工業学校の恩師である板谷波山や
ラウンジチェアを譲り受け愛用したチャールズ・イームズなど …
大らかな人柄がしのばれる交流のさまも見てとれますよ。
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へうげもの 13服
へうげもの 13服
山田 芳裕
(モーニングKC)

秀吉死去から関ヶ原へといたる、風雲急を告げるころの
徳川家康、石田三成をはじめとする諸将の腹の探り合いが
けっこう丹念に描かれている、この最新刊。

一大事の前の、そうした腹の探り合いに
腰のものを置いて狭小空間で向きあう茶は格好の場。
実際にあった(記録に残っている)茶会もさまざま織りまぜつつ
人間関係が寄せては引き、ストーリーは展開していきます。

たとえば石田三成と大谷吉継の茶における逸話など
『へうげもの』 流の大胆な破壊(!?)と再構築がなされていて
これがまた読後に思い返すと、してやられた、という感じで。
またまた満足の読後感でした。

さて、織部茶碗のほうはといえば。

慶長4(1599)年2月の茶会にて、古田織部が用いた茶碗を

 セト茶碗 ヒツミ候也 ヘウケモノ也

と、自らの茶会記 『宗湛(そうたん)日記』 に記したのは
博多の豪商にして茶人、神谷宗湛でしたが。

タイトルにもなっている、この 「へうげもの」 の結実に
織部がたどり着くのを、愛読者として心待ちにしていました。
その茶会のシーンも、ようやく登場します。

《黒織部菊文茶碗》 を両の手で包んだ宗湛の口から

「もはや完全に利休好みを離れ…
 「ひょうげもの」 と呼ぶべき物にございますれば」

とのことばが発せられた瞬間に
待ってました! と浮き立つような心地にさせられました。

この実際に伝世する黒織部、菊文、といわれていますが
作品中では面白いことに、織部本人が
菊ではない、意外なあるものから想を得たことになっていて。
そのあたりの、外しの小技も冴えていて
ひとコマたりとも読み飛ばせないのです。
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